西洋で人々は関係を変えつづけている。
あまりにも関係が多すぎる。愛は両方のやり方で殺される。
東洋では、変えることを恐れるために愛は殺される。西洋では、一人の人と長くとどまることを恐れるために愛は殺される。
恐れるのは、それが約束(commitment)になるからだ。
だからそれが約束になる前に変えてしまう。
そうやってあなたは自由に漂っていることができる。
そうしてある種の放逸さが育くまれる。そして自由の名のもとに、愛はほとんど打ち砕かれ、餓死してしまう。
愛は両方のやり方で苦しんできた。東洋では、人々は安全性に、快適さに、形式にしがみついてきた。
西洋では、彼らのエゴの自由に、 約束しない(non-commitment)ことにしがみついてきた。
だが愛は両方のやり方で苦しんでいる。
私は愛を支持している。
私は東洋人でも西洋人でもないし、あなたがどちらの社会に属しているかなど気にはしない。
私はどんな社会にも属していない。
私は愛を支持している。
いつでも覚えておきなさい。
それが愛のある関係なら、それは善い。愛がつづくあいだは、そこにとどまりなさい。
そしてできるかぎり深く関わって(committed)そこにとどまりなさい。
できるだけ全面的にそこにとどまり、すっかり関係性に飲み込まれてしまいなさい。
そうなったら愛があなたを変容させられる。
だがそこに愛がないなら、変えたほうがよい。
だがそのとき変化に中毒してはならない。
それを習慣にしてはならない。
まるで2~3年おき、あるいは一年ごとに車を買い換えるように、2~3年おきに相手を変えなければならないような機械的な習慣にしてはならない。
ふいに新しい女性に出くわす。たいした違いはない。女は女だし、男は男だ。
違いは二次的なものに過ぎない。 というのもそれはエネルギーの問題だからだ。
女性エネルギーは女性エネルギーだ。
一人一人の女性のなかにすべての女性が表れている。
そして一人一人の男性の中にすべての男性が表れている。
違いはとても表面的なものだ。鼻が少し長いとか短いとか。髪が金髪かこげ茶かとか。ささいな違い。ただ表面的なものだ。
深いところでは男性エネルギーか女性エネルギーかの問題だ。だからそこに愛があるなら、つらぬきなさい。
それが育つ機会を与えるのだ。だが愛がないのなら、愛のない関係に中毒してしまうまえに変えなさい。
若き人妻が告白部屋の中で神父に避妊について尋ねた。
「それらを使うべきではありません。」
神父は答えた。
「それは神の摂理に反します。 水を一杯飲みなさい。」
人妻は尋ねる。
「する前に、 それともした後で?」
神父は答えた。
「する代わりにですよ!」
あなたは東洋のやり方に従うべきか西洋のやり方に従うべきか私に尋ねている。そのどちらでもない。
聖なる道に従いなさい。
OSHO