「男とは?女とは?2−2」
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いっしょになり、ポジティヴに動いている男と女は、ひとつの全体だ。
そして、ほんとうのカップルは――ほんとうのカップルはめったにいないが――ひとつであり、そのなかでポジティヴな意味で互いに相手とつながり合っている。
カップルの九十九パーセントはネガティヴな意味でつながっている。
世界にこれほど多くの惨めさがあるのはそのためだ。
もう一度繰り返そう。
男は男らしくなければならないし、女は女らしくなければならないが、それはポジティヴな意味においてだ。
そうなったら、いっしょにいることが瞑想だ。そうなったら、いっしょにいることがまさに大いなる冒険だ。
そうなったら、いっしょにいることが毎日、新しい驚きをもたらしてくれる。
そうなったら、生はこのふたつの対極の間のダンスだ。
そして、彼らは互いに助け合う、互いに育み合う。
男ひとりではそれほど遠くへは行けないだろう。
女ひとりでは、どんなダイナミックな動きの可能性もないただのエネルギーのプールにすぎないだろう。
ふたりがいっしょだと、彼らは補い合う。
誰も相手より高くはない。
補い合うものはけっして高くも低くもない。
補い合うものは平等だ。
男も女もどちらかが高いということはない。
彼らは補い合う。
いっしょになって、彼らは全体をつくり、いっしょになって、彼らは互いに分かれていてはありえない神聖さを創造することができる。
だからこそ、イエスや仏陀はクリシュナよりもちょっと豊かさに欠けて見えるし、その理由は彼らが独りだからだ。
クリシュナのほうが全体的だ。
そのために、インドではクリシュナは完璧なアヴァタール、神の完璧な化身だと考えられている。仏陀は不完全だと思われているのだ。マハヴィーラも神の不完全な顕現であり、イエスもそうだ。クリシュナにはなにか全体的なところがある。
そして、もうひとつ。
もしそれが男と女の外側での出会いということにすぎなかったら、これほど重要なことにはならなかっただろう。
それはまた、男と女、それぞれの存在における、奥深くでの出会いということでもある。
というのも、男はそれぞれ内側では女でもあるし、女はそれぞれ内側では男でもあるからだ。
相手との外側での出会いと融け合いは、実は内側での出会いの準備を整えるためのレッスン、実験なのだ。
人はそれぞれ男と女から生まれてくる。
あなたの半分はあなたの父親から来ていて、あなたの半分はあなたの母親から来ている。あなたは正反対の極の出会いなのだ。
現代の心理学、とくにユング派の心理学は、男性は男女両性の質をもっているし、女性もそうだという、これを認めている、これに基づいている。
もしあなたの顕在意識が男性のそれであれば、あなたの無意識は女性のそれだということになり、その逆もまた真実だ。
だが、内なる出会いをなんとか成し遂げるのは、初めのうちはむずかしい。
内なるものは目に見えないからだ。
まず最初に、あなたは目に見えるものでレッスンを学ばなければならない。
外側の女性と出会うがいい、外側の男性と出会うがいい。
そうすれば、この出会いとはいったいなになのかという体験をいくつか得ることができる。
そうなったら、ゆっくりゆっくりと内側に向かって探求し、そこに同じ対極を見いだすことができる。
あなたの内なる男性と女性が出会う日に、あなたは光明を得ている。
その日こそ、あなただけではなく全存在にとって、大いなる祝祭の日だ。ひとりの人が再び戻ってきた。無数の、無数のなかから、ひとりの人が到着したのだ。
仏陀が光明を得たとき、空から花が降ってきたと言われている。
これは歴史上の事実ではない。詩的な表現だ。が、途方もなく意義深い。全存在が踊ったにちがいない、歌ったにちがいない、無数の花を降らせたにちがいない――というのも、それはまれな現象だからだ。
暗闇で手探りしていた魂が突然、統合されるようになった。
断片的だった魂が結晶化するようになった。
ひとりの人が神になったのだ。それは祝われてしかるべきだ。それは全存在への祝福だ。
だが、最初のレッスンは外側で学ばれなければならない。
それを覚えておくがいい。
外面でその女性を、彼女の豊饒さのすべてを、彼女の甘美さと苦さのすべてを知っていなければ、外側でその男性を、彼の美しさのすべてと醜さのすべてを知っていなければ、あなたは内なる次元へと入って行くことができないだろう。
陰と陽、シヴァとシャクティが内側で出会うのを許すことができないだろう。
そして、その出会いはこの上もなく重要だ、究極的に重要だ。その出会いとともに初めて、あなたは神になるからだ―それより前ということはけっしてない。
OSHO