再び子供のようになったとき、人は純粋になる

タントラは言う「再び子供のようになったとき、人は純粋になる」
もちろん子供になるのではなく、子供のようになるのだ。
そこには相違もあるし、また類似点もある。

類似点とは「取り戻された無垢」だ。

再び人は子供のようになる。

子供が裸で立っていても、誰もその裸を気に留めない。
なぜなら子供はまだ身体を意識していないからだ。
子供の裸は、あなたの裸と質が違う。
あなたは身体を意識している。

賢者こそは、この無垢を取り戻した人間だ。
彼は自分の身体を忘れ去った。彼はもはや身体ではない。
だがそこには違いがある。その違いは大きい。

子供はただ無知であるがゆえに無垢だ。だが賢者には知恵がある。これこそが彼の無垢の理由だ。

子供はいつかある日、自分の身体を意識するようになり、裸であることを感じるようになる。

そして裸を隠そうとする。
裸を悪いものだと思うようになり、恥ずかしく感じるーーー裸を意識するようになる。

だから子供の無垢は無知の無垢だ。
それは知識によって破壊されてしまう。

これこそが、聖書にあるアダムとイブの楽園追放の物語だ。
2人は子供のように裸だった。
身体を意識していなかった。
怒りも、貪欲も、欲望も、セックスも、何もかも意識していなかった。
2人は子供のように無垢だった。
神を2人に対し、知恵の木の実を食べてはいけないと命じた。
知恵の木の実を禁じられていた、にもかかわらず2人はそれを食べた。

禁じる売られているものは何でも気をそそるものだ。
禁じられているものは何でも魅力的になる!

イエスは言う「子供のようにならない限り、神の王国には入れない」
子供のようにならないかぎりーーーこれこそがタントラの純粋さだ。

OSHO

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ〜内なる世界の発見〜より

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