人々はいつも誰か他の人に施しをしてもらいたいと思っている。
だから彼らは救世主がやって来るのを待っている。
だが、それは不可能だ。
キリスト教徒はイエスが救済してくれると考えている。
イエスが救えるのは自分自身だけだ。
イエスが手助け出来るのは、瞑想に向かおうとする人だ
。
彼が苦悩や限界や惨めさから人間を救うというのは、別に同情からではない。
そして愚かな者達は、もう一度キリストがやって来るのを再び待っている。
イエスは三千年もの間待ち続けられている。
人類の歴史上、真実を正確にあるがままに話したのは仏陀だけだ。
彼は言った。「あなた自身の光になりなさい、あなたの為には誰も何も出来ない」もちろん仏陀は道を指し示すことは出来る。
しかし、後は全てあなたがすべきだ。
惨めでいるか、
祝福に満ちているか、
無知なままで生きるか、
光に満たされているかは、
あなた次第だ。
そして光に満たされる方法とは、瞑想以外にない。
あなたの全エネルギーを瞑想に注ぎ込みなさい。
生を愛しなさい。
生の小さな事柄を愛しなさい。
とても些細なこと、食べたり歩いたり眠ったり、人生の単なる日常的活動は、歓喜へと変容されるべきだ。
全てがダンスとなるほど、喜びをもってすることだ。
その時、真実はそう遠くにはない。まさにこの瞬間、あなたの至福はトータルだ。
真実があなたにもたらされる。
その時、一瞬ごとにそれは近く、近くなる。
そして真実が解放される。
瞑想は喜びに満ちた活動だし、歌だ。
義務にしてはならない。
それを楽しみ、喜びとするのだ。
あなたが瞑想を義務的にするなら、核心をすっかり取り逃がすことになる。
その時、瞑想は決して起こらない。
とても軽い、全然深刻でないムードで行った時にのみ、瞑想は起こる。
深刻さは重い、そして重いものは全てあなたを下降させる。
小さな子供が浜辺を貝殻や綺麗な色の石を集め、そこら中を走り、ほとんど風や海、そして砂や日光と一体になっているのが分かるだろうか。
あなたもそれくらい軽々となることだ。
軽さがある時、あなたには翼がある。
あなたは上に飛び立つことが出来る。
そして瞑想は、あなたのエネルギーを上昇させる動きを意味する。
物体が下に引き寄せられる力、重力を発見したのは科学だ。
重力の発見のはるか前に、宗教は全く異なった法則を発見した。私はそれを恩寵の法則と呼ぶ。
科学用語的に言うと、揚力の法則と呼ぶことが出来るだろう。
それはあなたを持ち上げ上昇させる。
しかしその為に必要なのは、重さを減らすことだ。
深刻なマインドには重さを減らすことは出来ない。
OSHO