美醜は確実にある。
世界共通ラインってのもある。
地域限定版ってのもある。
期間限定もある。
だから美の価値なんて時と他者と地域次第なので一喜一憂はエゴを産むばかり。
世はやれインスタ映えだ、と外見重視を加速するが、何かに、誰かに焦点を合わせた美などそもそも美なのだろうか?
タントラの場で一番その人が美しく見える時は、外見でも着てる服でも髪型でも何でも無く、真実に向き合い、それを受容れ、越えようともがき、逃げず、真実に相対している、その瞬間で、それはそれはとてつもなく美しい。
そしてその体験は不思議と普遍の美を産む。
OSHOの美醜について・・・
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全ての顔が美しい。
全ての顔が、それぞれに美しい。
全ての顔は異なり、どの顔もユニークだ。
実のところ比較も、比較の可能性もない。
あなたがこのことを認めたら、あなたは美しくなるだろう。
受容を通して、美しさが芽生える。 あなた自身が否定し拒絶したら、あなたは不具になり醜くなるだろう。
そこには悪循環がある。
まず、あなたは拒絶する。あなたは受容しない・・・すると、あなたは醜くなる。すぐに他人も、その醜さを感じ始め、あなたは「その通り、それは本当だ。私の考えは、筋が通っている」と言う。
こうしてあなたは、自分自身をさらに拒絶する。これこそ、マインドが自己満足を続けるからくりだ。
そしてひとたび、あなたが最初のステップを踏み外すと、全てマインドが予言した通りになる。最初のステップとは、自分は自分である、ということだ。 美に基準はない。
実のところ、ほぼ5千年にわたって、哲学者達は、美を定義しようとして来た。
そして、いまだ定義出来ていない。なぜなら、基準がないからだ。
ある人は、誰かにとっては美しいが、別の人にとっては美しくない。
もっとも美しい女性ですら、ある人にとっては醜く見える。それは、完全に個人の選択だ。 だから基準はない・・・そして、服の流行のように基準は変わる。異なる美の概念が生まれている。
そしてどんな概念であれ、身体はそれを実現する。理解しておくといい。
ある国で大きな胸が美しいとみなされると、女性は大きな胸を創り出す。
一般に、小説や詩や文学は社会を反映する、と言われている。しかし、それは逆向きにも作用する。 小説や詩や文学が、社会を創ることもあるのだ。ひとたび、あなたがある種の想念を抱き、それが人々のマインドに入り込むと、それは作用する。
この人は美しく、この人は美しくない、といった基準はない。
それは個人の好みであり、実のところ気まぐれなものだ。
しかし、そもそも自分自身を受け容れないとしたら、あなたは、誰もあなたのことを受け容れない状況を創り出している。なぜなら、自分が受け容れないとしたら、他人にも受け容れさせないからだ。 あなたが女性で、ある男性があなたに恋をしたら、あなたは、その愛を壊そうとするだろう。
あなたは言う。
「よくこんな醜い婆さんに、恋が出来るわね?」と。
あるいは、その男性の美意識はかなり奇妙だ、と思うだろう。自分自身を愛さないなら、他人もあなたを愛せない。 だからまず、誰もが自分自身に恋をするといい。
OSHO