中年の人たちはある種の中間状態にある。
彼らはどっちつかずの状態で、途中にぶら下がっている。
彼らは若者のようにやることはできないし、老人のようにやることもできない。
絶えざる葛藤と分割のなかにある―ある部分は若者になろうとするし、ある部分は老人になろうとする。
彼らは苦脳のなかに生きている。
若さは去ったが、老年はまだやって来ていない。
その緊張はあまりのものだ。
この年齢での心臓発作は、実際には肉体的なものではない。
もちろん、それは肉体的な症状となって現れるが、深いところではそれは心理的なものだ。
中年の人はもっとも困難な生を生きる。
彼は橋のようだ―こちら側にいるのでもなく、あちら側にいるのでもない。
まだ踊っている人たちといっしょになることはできないし、教会や、寺院や、モスクで祈り告白している人たちといっしょになることもできない。
彼は完全に自分を失っている。どうしたらいいのか、どこに行ったらいいのかわからない。
これが起こるのはひとえに、彼が青春を全面的に生きなかったからだ。
青春を全面的に生きたなら、あなたは最後の息を引き取るときまで若々しいだろう。
肉体は年を取るかもしれないが、新鮮さや若々しさは変わらない……。
あなたの若々しさは年を取ることとはまったく異なる現象だ。
年を取ることは肉体的なものだ。
若々しさとは、あなたの生に対する姿勢だ。
生に賛成し、生に反対していないなら、あなたは最後の息を引き取るときまで若々しいだろう―内なる世界において―そして中年というものはない。
中年は透き間だ―むしろ悪夢に似た透き間だ。
なぜなら、若さは去ったが、老年はまだやって来ていないからだ。
快楽を求めることはできないし、悔やむことすらできない―何を悔やむのか?
あなたは一度も生きたことがなかった。
悔やむという問題は起こってこない。
だから人は青春と老年のあいあだでやりばのないうつろさを感じる。
その透き間はとてつもないものだ―人生でいちばん痛みに満ちた経験だ。
OSHO