OSHOが語る「嫉妬」〈2−1〉
*長い文章なので2回に分けアップしています。
「あなたは嫉妬を落とすことなどできない。なぜならあなたはセックスを落とすことができないからだ。問題はどのようにセックスを愛へと変容するかだ。そうすれば嫉妬は消える。」
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確かに私は怒りとセックスについてより多く話し、嫉妬についてはそれほど話さない。
なぜなら嫉妬は一次的なものではないからだ。
それは二次的だ。
それはセックスの二次的なものだ。
あなたの心(マインド)のなかに性的な衝動があり、あなたの存在に性的なものがあるときにはいつも、あなたが性的に魅力を感じ、誰かと関係するときにはいつも、嫉妬が入り込む。
なぜなら、あなたは愛のなかにいないからだ。もしあなたに愛があれば嫉妬はけっして入り込まない。
全体を理解するようにしてごらん。
あなたが性的に関係するときはいつも、あなたは恐れている。なぜなら、セックスは実のところ「関係性」ではないからだ。それは搾取だ。
もしあなたが性的にひとりの女またはひとりの男に執着すれば、あなたはこの女が誰かほかの人のところへ行くのではないか、この男が誰かほかの人のところへいくのではないかといつも恐れるようになる。
そこには実際なんの「関係性」もない。
それは相互搾取にすぎない。
あなたたちはお互いに搾取しあうが愛しあってはいない。
そしてあなたはそのことを知っている。だからあなたは恐れる。
この恐怖が嫉妬になる。
そうするとあなたはものごとを起るにまかせない。
あなたは警戒する。あなたは、この男がほかの女を見ないようにと、あらゆる防御策を講じる。
見ることさえ危険信号だ。この男はほかの女と話すべきではない。なぜなら話せば……
そして、あなたは彼が去りはしないかと恐れを感じる。
あなたは、この男がほかの女のもとへ走り、この女がほかの男のもとへ走るあらゆる道、あらゆる手段を封じる。
あなたはあらゆる手段、あらゆる扉を閉じる。
だがそうすると問題が生じる。
すべての扉が閉じられると、その男は死んだようになり、その女は死んだようになる。
囚人となり、奴隷となる。
そしてあなたは死んだものを愛せない。あなたは自由でない人を愛せない。
なぜなら愛は、惜しげなく与えられたときにのみ、奪われたり、要求されたり、強いられたりしないときにのみ、美しいからだ。
最初にあなたが防御策を講じる。
そうするとその人は死んだようになり、物のようになる。
最愛の人は人間であるはずなのに、妻は物になる。
最愛の人は人間であるはずなのに、夫は保護され、所有され、コントロールされた物になる。
しかしコントロールすればするほどあなたはその人を殺しているのだ。
なぜなら自由が失われるからだ。
そして相手のほうは別の理由でそこにいるかもしれない。
しかしそれは愛のためではない。
なぜなら、どうして自分を所有している人を愛することなどできる?彼は敵のように見えてくる。
セックスは嫉妬をつくり出す。
しかし嫉妬は二次的だ。
だからどのようにして嫉妬を落とすのかということは問題ではない。
あなたは嫉妬を落とすことなどできない。
なぜならあなたはセックスを落とすことができないからだ。
問題はどのようにセックスを愛へと変容するかだ。
そうすれば嫉妬は消える。
もしあなたがその人を愛すれば、その愛こそが充分な保障となる。その愛こそが充分な防御だ。
もしあなたがその人を愛すれば、彼は誰かほかの人のところへ行くことなどできない、ということをあなたは知っている。
そして彼が行くなら、彼は行く。
どうすることもできない。あなたになにができる?
あなたはその人を殺すこともできる。
しかし死んでしまった人はなんの役にも立たない。
あなたがその人を愛するとき、あなたは彼が誰のところへも行くことができないと信頼する。もし彼が行くなら、愛はないのだし、どうすることもできない。愛はこの理解をもたらす。嫉妬はない。
だから、もし嫉妬がそこにあるなら愛はないのだと知りなさい。あなたはゲームを演じているのだ。
あなたは愛の裏にセックスを隠している。愛はただの偽りのことばだ。実際にあるのはセックスだ。
インドでは、愛は、まったく許されなかったわけではないが、あまり許されず、そのために結婚は取り決めで行われ、それでたいへんな嫉妬が存在している。
夫はいつも恐れている。彼は一度も愛したことがないので、彼は知っている。
そして妻は恐れている。なぜなら彼女は一度も愛したことがないので、彼女も知っている。これは取り決めなのだと。
親が取り決め、星占術師が取り決め、社会が取り決める。妻と夫は一度もたずねられなかった。
多くの場合、彼らは一度も知り合ったこともなく、お互いを見たこともない。だから恐怖がある。
妻は恐れ、夫は恐れている。そして両方ともお互いを探りあっている。愛への可能性は失われてしまう。
OSHO
つづく・・・