人間とはひとつのジレンマ、イエスとノーの両方である。
人間は半分大地で半分空。
一部は物質、一部は意識。
一部はごみで、一部は神聖。
人間は緊張だ。
フリードリッヒニーチェは「二つの無限の間に張られた縄」だと言う。
その過去は獣のもので、未来は神のそれだ。
そしてその間に在るのが人間だ・・半分は獣で、半分は天使。
「ノーはその過去からやってくる。「イエス」は未来への可能性だ。
人間は二つであり、二重であり、分たれている。
それは人間の悲惨だが、至福への可能性でもある。
それは人間の苦痛だが、その苦痛の中から歓喜も生まれる。
人間を除いてどんな動物も歓喜に満ちていることはない。
羽ばたく鳥は自由に飛べるが、自由については何も知らない。
人間だけが、たとえ牢獄にいようとも、自由とは何かを知っている。
それゆえの不幸がある。
束縛されながらも、自由のビジョンを持っているからだ。
醜い現実と、光り輝く可能性があるからだ。人間の威厳と壮大さも、人間の不安もそのためだ。
不安とは、ふたつの正反対の可能性がもたらす当然の結果だ。
ある瞬間には突然、日に照らされた頂きとなり、またある瞬間には今までに見たことがないような暗い谷間となる。
ある瞬間には愛や分かち合い。
ある瞬間には怒りや、惨めさ。
ある瞬間には全世界を包めるほど大きな心になるかと思えば、別の瞬間には自分でも信じられないくらい偏狭になる。
人間は振り子のように、これら二つの無限の間を揺れ続ける。
解決の可能性は二つある。
ひとつは、後退してあなたの獣性に満足することだ。
満足するということ、それが多くの人々の選択だ。
飲んで、食べて、眠り、そして人生の大きな挑戦のことはすべて忘れてしまう。
それが物質主義者のすることだ。
彼は自己防衛のために、より高い自己を否定する。
もし否定しなければ、あの「あれか、これか」がまた始まってしまうからだ。また問題の中へ逆戻りだ。
どうにかしなければいけない。
くつろぎはまたも失われる。また旅が始まる・・放浪が、不快と不便と旅路の危うさが・・
高みは存在しないと言った方がましだ。
魂などない、内なるものなどない、人間には内面性などない、外から見えるそれだけが人間なのだ・・と。
人間とは習性に過ぎない。
機械の内側に誰もいないのと同じで、人間の内側にも誰もいない。
これはパブロフからB・F・スキナーまで、いわゆる科学的な心理学者たち、行動主義者たちによって説かれていることだ。
人間の内には、機械的でない何かが確かにある。
そしてその非機械的な部分こそ、彼らの栄光だ。
しかし、それは否定してしまった方がいい。
その方が生きるのはたやすく、人生に不安は少ない。人生に問題を感じることは少なくなる。
いわゆる楽しみからなる浅薄な日常を生き続けることもできる。食べて、飲んで、陽気にやろう。
そう、下位の自己にくつろぐことはできる。
しかし、それでは成長はない。歓喜はそこにない。
どんなブッダもあなたの内に生まれないのだから。
あなたは暗闇の中にとどまる・・もちろんくつろいではいるが、くつろいでいることに何の意味がある?
創造的な不満の方が遥かに価値がある。
未知のものへの不安の方が、はるかに価値がある。
本当の家を探してさまよう宿無しの乞食の方が、遥かに価値がある。
いいかい、私は低いものを否定しろと言っているのではない。
なぜなら、もう一方の極端に走る馬鹿げた人たちがいるからだ。
ある種の馬鹿は高みを否定して低いものへと落ち着く。
別種の馬鹿は低いものを否定して、あるのは高みだけだと言う。
どちらも馬鹿な真似をしている。
同じことをしているに過ぎない。
どちらも正反対のものを否定して、一切の内的緊張を避けている。
だが覚えておきなさい。
あなたに活力を与えるのは、この内的緊張なのだと。
緊張が大きいほど、あなたは活力に溢れている。
男は女に惹きつけられる。逆も然り。
電極の陰極は陽極に向けて惹きつけられる。逆もまた然り。
どうして反対のものに惹かれるのだろう。
なぜならまさに惹かれることによって、命が生じるからだ。そんな緊張の中で、死んだようにしていることなどできるだろうか。
その緊張の中でこそ、あなたは脈打ち始める。
「イエス」が「ノー」に対立している必要はない。
「ノー」が「イエス」に相対しなければいけない必要性もない。
それらは補い合うことができる。
お互いを育むことができる。
緩んだ弦のシタールで、どうして音楽を奏でられよう。
適度な緊張の中にあってこそ、最も美しい調べも生まれてくる。
OSHO