二人の精神科の医者が路上で出会った。
「やあ元気そうだね。
ところで僕の調子はどうだい?」とひとりが言った。
人々は互いに尋ねあっている。
誰も自分の調子がわからない。
彼らは互いに目をのぞき込み、
自分自身に関する情報を他人から集めている。
他人の意見がこれほど重要になっているのはそのためだ。
誰かに馬鹿だと言われたら、あなたは怒り出す。
なぜだろう?
あるいはあなたは悲しくなる。
なぜだろう?
あなたは打ち砕かれる。
自分を賢い人間だと思っていたのは、
他人から「あなたは賢い人だ」と言われたからだ。
あなたが拠り所としていたのは他人の意見だ。
他人がどう思うかを絶えず気にしているのは、
あなたが他人が考える自分しか知らないからだ。
あなたは自分自身のことは何も知らない。
さあ、これはなんという状況だろう?
この私に私のことがわからないのに、
他の誰に私のことがわかるというのだろう?
外側から私を観察することはできないし、
そのような仕方で私を手に入れることはできない。
外側から観察することができるのは私の肉体だけだ。
私は内側から自分の意識を知ることができる。
あなたは自分自身について
何かを直接知ったことがあるだろうか?
あなたは他人の意見を持ち込むことなく
自己に直接遭遇したことがあるだろうか?
ないとしたら、
あなたはまだ生きてはいない。
自己に遭遇することで、
自分自身を直接、
間髪を入れずに観ることで、
はじめて生は息ずきはじめる。
他人が思うあなたではなく、
あるがままのあなたを観ることができたとき、
はじめて生は立ち現れてくる。
他人にどう思われようと、
他人に何を言われようと、いいではないか。
OSHO